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2015年7月31日 (金)

こはるちゃん

 S高原に旅行した。

旅行は最悪だった。台風の襲来とともに現地入りし、去ると同時に帰宅するという間の悪さだった。予定に入っていた高山植物にはお目にかかれず、おまけに持病が悪化して、遠い街の病院まで雨風の中を出かけなければならなかった。

 ‥‥   ‥‥   ‥‥ 

 散々な思いでホテルまで帰宅する途中のこと、バスの乗り継ぎ駅で座席に着いて発車を待っていた。発車時刻が迫ってきた頃、運転手さんが事務所から出てきたが、その時何とも愉しい情景を目にしたのだった。

 ‥‥   ‥‥   ‥‥ 

運転手さんは一人ではなく、何人かの子供も交じって数人と談笑しながら近づいてきたのである。子供と手をつないでいるようにも見えた。

思わず、

「運転手さんと小学生がお友達なんだ! 田舎のバスっていいなあ!」

と呟いたら、同乗の女性が反応して振り向き気味になったので、

「田舎なんていって失礼でした。御免なさい。」

と、反射的に云い直したりもした。

とにかく、こんな光景は私にとっては始めてのことで新鮮だった。

 ‥‥   ‥‥   ‥‥ 

乗り込んできた子供たちは、私の座っている席の前あたりに陣取った。子供たちにとっては毎日のことなのだろう、緊張感は全くないようだった。

バスが発車してから間もなく、私の真前に据わった女の子が振り向いて私の顔をマジマジと見詰めるので、こちらもそれに合わせて微笑んで目を合わせると

「こっちの目は見えないの?」

と、右手指で私の左眼を指した。

突然のことだったので少しドギマギしたが、なんだかとても嬉しくなったので

「オーオー、見えないよ」

「全く見えないの?」

「オーオー、何も全然見えないよ」

声が少し上ずっていたかもしれない。

「だけどね、こちらがみえるから大丈夫!」と自分の右眼を指さして、

「な~んでもみえるんだぞ~! ぜ~んぶみえるんだぞ~! ほらね~」

とわざとそのあたりを見回す動作をした。

 ‥‥   ‥‥   ‥‥

女の子は全く表情を変えないで

「そうこっちがみえるから大丈夫なんだね。なんでも見えるから全然大丈夫なんだよ。だけどもう一つのほうも見えなくなると、ほんとに困っちゃうんだよね~。何も見えなくなって歩けなくなるもんね。でもね、こっちが見えるから大丈夫!」

精一杯フォローしてくれた。

還暦を過ぎた私よりも女の子のほうがよほど冷静に振る舞っている。

 ‥‥   ‥‥   ‥‥ 

視力を失ってかれこれ五年ほどになるが、これほど率直に直截に左眼のことを指摘されたことはこれまでに一度たりとも無かった。率直はこれほど心を揺さ振るものか ‥‥ 

時代の風潮なのか、無関心というものなのか冷たいというのか、いじわるといっても決して言い過ぎとは思えない、そんな世の中の流れを、子供はときに一挙に突き抜けてしまう。

感動大なるものがあった。

 ‥‥   ‥‥   ‥‥

「学校の帰りなの?」

「違うよ。 ‥‥ 保育園の帰り。みんな保育園だよ。」

近頃の子供は成長が早い。そして、先ほどの女性を

「保育園のお姉さん」

と紹介してくれた。女性は

「ふふふ、何言ってんの。私にはね、あなたと同い年の孫がいるんだよ。おばさんだよ、おばさん。アハハハ」

恥ずかしそうでもあり嬉しそうでもあった。

 ‥‥   ‥‥   ‥‥ 

保育園児の彼女たち・彼氏たちは物珍しげに片目の私に注目している。

「名前、なんていうの?」

と聞くと

「こはる」

と、教えてくれた。

こはる、とはきっと“小春”と書くのだろうか。古風な名前だ。村田秀雄の歌っていた流行歌「王将」の“~~女房の小春~~”という一節が心を過った。しかし、こはるちゃんという名の女の子がこの平成に他にも確かにいたような気がする。戦前に流行った名前が今蘇っているのだろうか。そんなことを反射的に考えた。

「こはるちゃんだね。いい名前だな~」

と大げさに感動してみせた。

 ‥‥   ‥‥   ‥‥ 

「あのね、あの子サエちゃん。で、マモルくん。」

「それでね、サエちゃんのお兄ちゃん。お兄ちゃんは小学生なんだよ。」

一気に全員を紹介してくれた。

「お兄ちゃんは一年生かな?」

「そう一年生。でね、私これ」と手を広げて見せた。

「五才なんだね」

「うん、五才。サエちゃんも同じだよ。来年は小学生。」

「ピッカピッカの小学生になるわけだ」

「そう、小学生だよ。でもマモルくんは四才だからちがうよ」

「マモルくんは来年の来年に小学生だ」

「うん、そう」

当のマモルくんは、うなずく素振りでニコニコしている。サエちゃんは、小さい体で大きな座席に半分仰向けの姿勢で、頷きながら仲間に入っている。お兄ちゃんは少し離れた前の座席で、気になるのか時々ふり返ってこちらを一瞥している。

 ‥‥   ‥‥   ‥‥

最初に下車したのはサエちゃん兄妹だった。お母さんらしき人が迎えに出ていた。“○○株式会社S高原寮”と書かれた標識が立っていた。

次にはマモルくんが降りた。

道が本道から逸れてしばらく下ったところに広場があり、バス停の標識が立っていた。“△△温泉”と書かれていて、男性が迎えに来ていた。

つぎには私が降りた。

坂を上りきったところのバス停で、バスが止まって私が席を立つと小春ちゃんは右手を差し出した。私はそれに右手を合わせ、パチンと音を立てるようにした。ほんの数分間、小さな出会いの最後の瞬間だった。

「それじゃね」

彼女は頷いて大きく微笑んだ。

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